Sir John Arthur "Jack" Brabham。
昨日、19日の朝、オーストラリア・ゴールドコーストの自宅で死去。 享年88歳。
オーストラリア・Sydney 郊外の Hurstville 生まれ。 (4/2,1926~5/19,2014)
[Sydney Morning Herald] [Comment of Moss]
1959、1960、1966年の三度にわたり 自身の名 "ブラバム " を冠したF1カー で
ワールド・チャンピオンを獲得した唯一のドライバーである。
1966年、F2の "Brabham-Honda " では、14戦中11勝の快挙を果たした。
Knight(Sir)の称号を得た最初の レース・ドライバーでもあった。
この写真は Lagna Seca のパドックで撮影され、US版ホームページ に掲載されているが、
この時 私もこの現場に居合わせ、ほぼ同じショットで 私が撮った写真を今でも所持している。
彼の愛用した Cooper F1に座っていた時のものだ。 20年位前の事だろうか。
写真には写っていないが、傍らには僚友の Denny Hulme もいて 和やかな雰囲気であった。
同じく 写真にはないが、赤の "Brabham BT8 " も すぐそばに 佇んでいた。
車番は忘れてしまったが、91年の Vintage Motorsport 誌の表紙のクルマだったように思う。
http://www.tsrfcars.com/toys-full_size_brabham.htm
Jack は 1955年 渡英し、British GP で Cooper T40 でデビュー、その時はリタイアしたが
59年のモナコGP で初優勝している。
61年、同じオーストラリア出身の Ron Tauranac と一緒にMotor Racing Development
を設立、オーナー・ドライバーとして 62年から "Brabham " の名でF1 に参戦する。
シャシー・ナンバーに付けられた"BT " は、両者の頭文字を著わす。
1992年まで、レーシングチーム 及びコンストラクターとして活躍した。
自身は70年にレースを引退、チームを トーラナックに売却して オーストラリアに帰国する。
引退後は 自動車販売を行ったり 航空会社も経営していた。
71年には John Judd と共に英国 バーミンガム近くの Warwickshire に "Judd "、
(Engine Developments Ltd.) を設立し、レース・エンジンの開発を行った。
余談だが Judd はその後、Honda とも密接に関連を持ち、83年には Honda F2 のV6、
"RA260E " を発展させた2.65リッター・V8ターボを CART 用に共同開発し、
86年からは "Judd AV " として Brabham・Honda の名のもと、CART に参戦する。
また 同年、F3000用に開発した V8 "Judd BV " は、ホンダエンジンの "RA386E "
の名で国際F3000 に出場している。
ジャッドは 87年には、"RA387E " として、また 88年には "Mugen MF308 " として
全日本F2選手権レースに用いられ、90年以降も 無限エンジンとして F3000に供給される。
その後 88年に "Judd CV "、89年には "Judd EV " を F1 に供給する。
91年に開発された "Judd GV " は、93年に Yamaha Motor Co., Ltd
(ヤマハ発動機株式会社) と提携して"YAMAHA OX10 " のベース・エンジンとなった。
また 96年からは、"Judd KV " が 国際F3000の ワンメイク・エンジンに使用されている。
再び余談だが、私は DFV の出物が有ればと思い、ロータス・カーズの敷地内にある
Classic Team Lotus の事務所を訪れた際、そこに ジャッド・エンジンがあって、
こっちの方が廉いけど と言われたが、その時は持ち合わせも無く、
どちらも 入手しづまいだった。 名器 DFV は やや高価であった。
さて、ブラバムは 72年から Bernie Ecclestone がチーム・オーナーとなって、
Gordon Murray を起用して開発したマシンが 活躍した。
(Tauranac 自身は その後、Ralt Engineering Ltd を設立している。)
そして エクレストンは、88年に アルファロメオに チームを売却した。
90年からは、日本の中内康児 が所有していた "Middle Bridge Racing " (国際F3000)
がブラバムのチーム・オーナーになり、Jack の三男である David Brabham にF1ドライバー
を託したが いま一つ振るわず、一時 ヤマハがチームを買い取る話もあったけれど
中内が懸念し、この話は没になった。
その後 中内の関与する ブラバム F1 は、ハンガリーGP を最後に レースから撤退している。
次のオーナーの手に渡って 93年に復帰を画すも、ブラバム・チームは消滅してしまった。
アストン・マーチンの愛好家としても知られた中内は、この頃Reliant Scimitar 社を買い取り、
英ノッティンガムにMiddlebridge Scimitar Ltd. を設立、MiddleBridge Scimitar GTE
の生産を再開して、88年から90年までの間に 77台をリリースした。
かって 中内さんとは、筑波サーキットのクラッシックカー・イベントで何度かお会いしている。
表て向きは温厚だが、内に信念を感じさせる素晴らしい方である。
Scimitar の生産と Brabham のチーム運営を手掛けたにつけ、
大変な御苦労をしたであろう事は 想像に難くない。
尚、かっての ブラバムの旧ファシリティーは ロンドンの Chesington にあったが、
現在は英・F3 に参戦する Carlin Motorsport が使用する。
(その後 Farnham に移動してるかもしれない。)
同チームからは、若くして亡くなった ジョン・サーティースの息子 Henry Surtees や、
日本の桜井孝太郎 らが 参戦していた。
そして "Sir Jack Brabham "
彼の名は、世界のレース史上で 永遠に忘れられることなく、心に刻まれることとなるだろう。
安らかに眠れ ........... !
この時 私もこの現場に居合わせ、ほぼ同じショットで 私が撮った写真を今でも所持している。
彼の愛用した Cooper F1に座っていた時のものだ。 20年位前の事だろうか。
写真には写っていないが、傍らには僚友の Denny Hulme もいて 和やかな雰囲気であった。
同じく 写真にはないが、赤の "Brabham BT8 " も すぐそばに 佇んでいた。
車番は忘れてしまったが、91年の Vintage Motorsport 誌の表紙のクルマだったように思う。
http://www.tsrfcars.com/toys-full_size_brabham.htm
Jack は 1955年 渡英し、British GP で Cooper T40 でデビュー、その時はリタイアしたが
59年のモナコGP で初優勝している。
61年、同じオーストラリア出身の Ron Tauranac と一緒にMotor Racing Development
を設立、オーナー・ドライバーとして 62年から "Brabham " の名でF1 に参戦する。
シャシー・ナンバーに付けられた"BT " は、両者の頭文字を著わす。
1992年まで、レーシングチーム 及びコンストラクターとして活躍した。
自身は70年にレースを引退、チームを トーラナックに売却して オーストラリアに帰国する。
引退後は 自動車販売を行ったり 航空会社も経営していた。
71年には John Judd と共に英国 バーミンガム近くの Warwickshire に "Judd "、
(Engine Developments Ltd.) を設立し、レース・エンジンの開発を行った。
余談だが Judd はその後、Honda とも密接に関連を持ち、83年には Honda F2 のV6、
"RA260E " を発展させた2.65リッター・V8ターボを CART 用に共同開発し、
86年からは "Judd AV " として Brabham・Honda の名のもと、CART に参戦する。
また 同年、F3000用に開発した V8 "Judd BV " は、ホンダエンジンの "RA386E "
の名で国際F3000 に出場している。
ジャッドは 87年には、"RA387E " として、また 88年には "Mugen MF308 " として
全日本F2選手権レースに用いられ、90年以降も 無限エンジンとして F3000に供給される。
その後 88年に "Judd CV "、89年には "Judd EV " を F1 に供給する。
91年に開発された "Judd GV " は、93年に Yamaha Motor Co., Ltd
(ヤマハ発動機株式会社) と提携して"YAMAHA OX10 " のベース・エンジンとなった。
また 96年からは、"Judd KV " が 国際F3000の ワンメイク・エンジンに使用されている。
再び余談だが、私は DFV の出物が有ればと思い、ロータス・カーズの敷地内にある
Classic Team Lotus の事務所を訪れた際、そこに ジャッド・エンジンがあって、
こっちの方が廉いけど と言われたが、その時は持ち合わせも無く、
どちらも 入手しづまいだった。 名器 DFV は やや高価であった。
さて、ブラバムは 72年から Bernie Ecclestone がチーム・オーナーとなって、
Gordon Murray を起用して開発したマシンが 活躍した。
(Tauranac 自身は その後、Ralt Engineering Ltd を設立している。)
そして エクレストンは、88年に アルファロメオに チームを売却した。
90年からは、日本の中内康児 が所有していた "Middle Bridge Racing " (国際F3000)
がブラバムのチーム・オーナーになり、Jack の三男である David Brabham にF1ドライバー
を託したが いま一つ振るわず、一時 ヤマハがチームを買い取る話もあったけれど
中内が懸念し、この話は没になった。
その後 中内の関与する ブラバム F1 は、ハンガリーGP を最後に レースから撤退している。
次のオーナーの手に渡って 93年に復帰を画すも、ブラバム・チームは消滅してしまった。
アストン・マーチンの愛好家としても知られた中内は、この頃Reliant Scimitar 社を買い取り、
英ノッティンガムにMiddlebridge Scimitar Ltd. を設立、MiddleBridge Scimitar GTE
の生産を再開して、88年から90年までの間に 77台をリリースした。
かって 中内さんとは、筑波サーキットのクラッシックカー・イベントで何度かお会いしている。
表て向きは温厚だが、内に信念を感じさせる素晴らしい方である。
Scimitar の生産と Brabham のチーム運営を手掛けたにつけ、
大変な御苦労をしたであろう事は 想像に難くない。
尚、かっての ブラバムの旧ファシリティーは ロンドンの Chesington にあったが、
現在は英・F3 に参戦する Carlin Motorsport が使用する。
(その後 Farnham に移動してるかもしれない。)
同チームからは、若くして亡くなった ジョン・サーティースの息子 Henry Surtees や、
日本の桜井孝太郎 らが 参戦していた。
そして "Sir Jack Brabham "
彼の名は、世界のレース史上で 永遠に忘れられることなく、心に刻まれることとなるだろう。
安らかに眠れ ........... !